昨秋、英トラス首相は、在任わずか49 日間で辞任した。 トラスはどこで失敗したのか。トラスの失敗から、日本は何を学ぶのか。

企画に当たって

市場の混乱招き、超短命に終わった英トラス政権
―膨らむ政府債務、日本は何を学ぶべきか

谷口将紀  NIRA総合研究開発機構理事長/東京大学大学院法学政治学研究科教授

谷口将紀  NIRA総合研究開発機構 理事長/東京大学大学院法学政治学研究科 教授

 英国の政治はこのところ混乱を続けている。2016年、デーヴィッド・キャメロン首相はEU残留の是非を問う国民投票に敗れて総辞職し、そのEU離脱交渉に行き詰まった後任のテリーザ・メイ首相も三年という短い期間で辞任、後継のボリス・ジョンソン首相は国民的人気を博し、総選挙で保守党を圧勝に導いてEU離脱(Brexit)を実現したものの、新型コロナウイルス感染症流行によるロックダウン中のパーティーなどのスキャンダルで、退任を余儀なくされた。

 ジョンソンの跡を襲ったのがリズ・トラスである。首相就任後に法人税減税を進めようとした一方、巨額の支出を伴うエネルギー費抑制策を発表。財源の裏付けを伴わない唐突な政策変更を前に、市場は急激な通貨安、株安、国債価格の下落など混乱に陥り、トラスはわずか四九日で辞任に追い込まれた。

 現在、日本の債務残高はGDPの二倍を超え、大規模な金融緩和策も長期化している。少子高齢化・人口減少と相まって財政・社会保障制度の持続可能性を危ぶむ声が大勢となってはいても、単純に財政や金融を引き締めるわけにはいかず、政府には長期にわたる繊細なかじ取りが求められる。「トラスのイギリス」に何が起きたのか。そこから日本は何を学ぶべきなのか。今回の「わたしの構想」は、五名の英国政治・経済のエキスパートにご寄稿いただいた。

 (一部抜粋)

 

識者に問う

トラスはどこで失敗したのか。
日本は何を学ぶべきかか。

 

金融の安定を軽視して、時限爆弾に火をつけた

ビル・エモット 国際ジャーナリスト/『The Economist』元編集長

ビル・エモット 国際ジャーナリスト/『The Economist』元編集長

トラスの失敗は、成長に向けた信頼できる経済計画を何も提示せずに、予算不足のまま大型減税を提案したことだ。これが「金融の時限爆弾」となった。日本の低成長、高インフレ、金融緩和の長期継続は、英国と類似している。トラスに辞任をもたらした時限爆弾に、日本が耐える余裕はない。

 

 

市場は、政策のタイミング・内容・手法を不適切と判断した

伊藤さゆり ニッセイ基礎研究所研究理事

伊藤さゆり ニッセイ基礎研究所研究理事

トラスが「成長計画2022」案を出すと、通貨、国債、株価の「トリプル安」となった。市場は、この政策を出すタイミング・内容・手法のいずれもが不適切で、リスクが高いと評価したのだ。日本は今は純債権国だが、財政規律の緩みが限度を超えれば、大きな痛みを強いられるリスクがある。

 

 

「人気取り」に引っ張られ、市場の信認失う

池本大輔 明治学院大学法学部教授

池本大輔 明治学院大学法学部教授

ジョンソン前首相の「大きな政府」路線に対する批判を受け、トラスはサッチャー以来の「小さな政府」路線に戻そうとした。しかしトラスが目指す路線は、大半の有権者に人気がない。次の総選挙に向けた政治的な配慮から、財源の裏付けを明らかにせず光熱費の大規模補助を打ち出し、市場の信認を失った。

 

 

トラスの失敗、背景に保守党が抱える課題

成廣 孝 岡山大学社会文化科学学域教授

背景には、現在の英保守党が抱える課題がある。党員の力学が強まり、英国経済の不調の原因であるBrexitを軌道修正する政策や人物は選ばれない。また2010年選挙以来、顔ぶれが大きく変わり、政権中枢も経験の浅い議員だった。政策への市場の反応を検討せず、独立財政機関の予算案検証の軽視にもつながった。

 

 

 

 

多様な人を巻き込み「新たな連合」を目指す労働党

高安健将 早稲田大学教育・総合科学学術院教授

高安健将 早稲田大学教育・総合科学学術院教授

対する英労働党は、トラスの失策で支持率を伸ばしたが、具体的な政策ははっきりしない。成長に向け、財政政策を展開したいところだが、トラス政権崩壊の経緯からみても公共投資の余力はなく、投資と分配による政策で多様な支持者を巻き込み、「新たな連合」を形成できるかが同党にとっての課題となる。

 

 

 5人の識者の意見

NIRAわたしの構想No.66「トラスのイギリスに何を学ぶか」

 

データで見る トラスのイギリスに何を学ぶか

英トラス政権の「成長計画 2022」

「就任後、…半世紀ぶりの大幅な減税を直ちに提案しただけで、予算不足の補填にも触れなかった。(ビル・エモット氏)」

「「成長計画」の中身は、経済活性化の起爆剤にするために大型減税を実施し、企業の税負担の軽減を図るというものだ。しかし、この処方箋は間違ったものだった。確かに英国はこの七~八年、企業の投資が低迷しているが、その理由は税負担の重さではない。(伊藤さゆり氏)」

「「成長計画二〇二二」で追加された光熱費の大規模補助は、トラスが本来目指す政策というのではなく、有権者にアピールするための「人気取り」政策と理解すべきだ。(池本大輔氏)」

「英トラス政権の「成長計画 2022」」NIRAわたしの構想No.66

出所) 英国政府発表資料「成長計画2022」をもとにNIRA 作成。

英国の投票予定政党の推移と年齢別内訳(2023 年5 月)

「保守党の支持率は低迷が続き、労働党に大きく水をあけられている。(谷口将紀氏)」

「英国の投票予定政党の推移と年齢別内訳(2023 年5 月)」NIRAわたしの構想No.66

注1)投票予定政党のうち、グラフでは保守党と労働党のみ記載。
注2)円グラフは投票予定政党の年齢階層別内訳割合(調査日:2023 年5 月3~4 日)。
出所) YouGov(https://yougov.co.uk/)(2023 年5 月10 日アクセス)をもとにNIRA 作成。

 

英国・日本の国債残高対 GDP 比率と国債保有者内訳

「英国は、国の経済規模に対して、資本移動のレベルが高い。対外的な債務と負債も多いため、資本流出を引き起こさない政策運営が非常に重要になる。(伊藤さゆり氏)」

「現在、日本の債務残高はGDPの二倍を超え、大規模な金融緩和策も長期化している。少子高齢化・人口減少と相まって財政・社会保障制度の持続可能性を危ぶむ声が大勢となってはいても、単純に財政や金融を引き締めるわけにはいかず、政府には長期にわたる繊細なかじ取りが求められる。(谷口将紀氏)」

「英国・日本の国債残高対 GDP 比率と国債保有者内訳」NIRAわたしの構想No.66

注) 国債保有者内訳は、英国は2022 年9 月時点、日本は2022 年12 月時点のデータを参照。
出所) 日本銀行(https://www.boj.or.jp/statistics/sj/sjexp.pdf)、内閣府(https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html)、英国債管理庁(DMO)(https://www.dmo.gov.uk/media/jsagozwt/oct-dec-2022.pdf)をもとにNIRA 作成。

 

英国債10年物利回りの推移(2022年7月1日~2023年1月2日)

「トラスの政策は「金融の時限爆弾」となって、金利の高騰、通貨の急落、債券市場の変動を惹起し、英国年金基金は支払能力が脅かされる事態となった。(ビル・エモット氏)」

「トラスが首相に就任して間もなく「成長計画二〇二二」案を出すと、通貨ポンド、国債、株価の「トリプル安」となった。市場は「成長計画」をリスクの高い政策と評価したのだ。その理由は、この政策を出すタイミング、その内容、また、手法のいずれもが不適切であったことに尽きる。(伊藤さゆり氏)」

「英国債10年物利回りの推移(2022年7月1日~2023年1月2日)」NIRAわたしの構想No.66

出所) Investing.com(https://www.investing.com/)をもとにNIRA 作成。

 

識者紹介

ビル・エモット 国際ジャーナリスト/『The Economist』元編集長

英エコノミスト誌元編集長(一九九三~二〇〇六年)。一九八三年より三年間、同誌東京支局長を務め、知日派として名高い。バブル崩壊前に日本凋落の兆しを指摘した衝撃の書『日はまた沈む』(一九九〇年)はベストセラー。二〇〇六年『日はまた昇る』では、日本の復活を宣言。その後も日本、アジア、イタリアを中心に分析を続け、発信してきた。近著は『「西洋」の終わり:世界の繁栄を取り戻すために』(日本経済新聞出版、二〇一七年)、『日本の未来は女性が決める!』(日本経済新聞出版、二〇一九年)など。英国日本協会会長。国際戦略研究所評議員会議長。二〇一六年、長年の日英関係への貢献により、旭日中綬章を受賞。

伊藤さゆり ニッセイ基礎研究所研究理事

専門は、欧州経済。国際金融に精通。数々の課題に向き合うEUの挑戦を注視し、日本の政策、企業戦略に資するインプリケーションを発信している。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本興業銀行(当時)を経て、ニッセイ基礎研究所入社、二〇一九年から現職。早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。早稲田大学大学院商学学術院非常勤講師、経済団体連合会二一世紀政策研究所研究委員を兼務。著書に『EUと新しい国際秩序』(共著、日本評論社、二〇二一年)、『沈まぬユーロ―多極化時代における二〇年目の挑戦』(文眞堂、二〇二一年)ほか。

池本大輔 明治学院大学法学部教授

専門は、英国政治・EU政治。英国のEU離脱を受け、EUのような超国家的政治システムと加盟国の民主政治はどうあるべきか、新しい時代の民主政治のあり方について考察を深めている。東京大学法学部卒業。オックスフォード大学政治国際関係学部博士課程修了(Ph.D)。明治学院大学法学部准教授を経て、二〇一七年より現職。近著に『EU政治論―国境を越えた統治のゆくえ』(共著、有斐閣ストゥディア、二〇二〇年)、『欧州統合史―二つの世界大戦からブレグジットまで』(共著、ミネルヴァ書房、二〇一九年)など。

成廣 孝 岡山大学社会文化科学学域教授

専門は、比較政治、英国現代政治,ヨーロッパ政治。イギリスの政党政治を中心に、他国との比較を交え研究している。二〇一九年のイギリス総選挙では、パネルデータを用いた予備的分析により、同選挙の特徴を観測、描出するなど、選挙の分析研究も行う。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。二〇一〇年より現職。著書に『ヨーロッパ・デモクラシーの論点』(共著、ナカニシヤ出版、二〇二一年)、『ヨーロッパのデモクラシー(改訂第二版)』(共著、ナカニシヤ出版、二〇一四年)など。

高安健将 早稲田大学教育・総合科学学術院教授

専門は、比較政治学、政治過程論。議院内閣制、首相・内閣システム、政府・政党関係など、日英の政治システムのあり方を研究。日英の比較分析などにより、権力のメカニズムの解明をめざす。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)政治学部博士課程入学、ロンドン大学博士号(PhD in Government)。北海道大学大学院法学研究科講師、成蹊大学法学部助教授、同教授を経て、二〇二三年より現職。著書に『議院内閣制―変貌する英国モデル』(中公新書、二〇一八年)、『首相の権力―日英比較からみる政権党とのダイナミズム』(創文社、二〇〇九年)、ほか。

 

記事全文

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