日本生協連 平和の活動 vol.1

~「ビキニ事件」をきっかけにまき起こった原水爆禁止署名運動。そのなかで生協が果たした役割と「第五福竜丸エンジン保存運動」~

 「平和とよりよい生活のために」―日本生活協同組合連合会(略称:日本生協連、代表理事会長:土屋 敏夫)は設立にあたって“協同組合は平和なくしては存立できない”との思いで、この理念を掲げました。今号では、戦前までさかのぼりながら、生協の平和活動の歴史をたどります。


 日本の生協は戦後一貫して平和の実現を志向し、さまざまな活動をおこなってきました。なかでも核兵器廃絶は今日でも中心的なテーマとなっていますが、そのきっかけの1つとなったのが、今から70年前に起きたビキニ事件でした。
 1954年3月1日、静岡県焼津のマグロ漁船、第五福竜丸が南太平洋上でアメリカの水爆実験によって被爆した事件は日本社会に大きな衝撃を与えました。特に人々の心をとらえ、急速に全国に広がったのが、東京・杉並の主婦たちの訴えから始まり、わずか1ヶ月で当時の杉並区の人口の7割に当たる26万筆を集めた原水爆禁止の署名運動です(全国では1年間で3,000万筆)。そこで大きな役割を担ったのが杉並区内の生協で活動する女性たちでした。杉並は戦前の城西消費組合をはじめとする生協の活動が活発な地域であり、そこでの活動や人々のつながりが署名運動の1つの系譜となったともいわれています。
 署名を契機として、全国の被爆者が自らの被爆の実相を語り、原水爆禁止の運動が大きなうねりとなりました。1955年には第1回原水爆禁止世界大会が開催され、この実行委員会に日本生協連も参加しました。

原水爆禁止の署名運動に取り組む杉並区生協協議会婦人部の組合員たち=1954年7月、矢根軍市編著『杉並中央生協25年史』生協運動史刊行会から(日本生協連資料室所蔵)

 1970年代に入り、米ソ対立の激化を背景に世界的に核兵器廃絶を求める機運が高まる中、生協の平和活動も核兵器に反対する運動を中心に大きな発展をみせます。
 1970年代以降、核兵器廃絶署名、被爆者援護法署名など全国の生協で精力的な活動が行われます。その基盤には「第五福竜丸エンジン保存運動」(次項を参照)のような、各生協の地域における「草の根平和活動」がありました。ほかにも戦争・原爆展、映画会、コンサートなどが活発に開催されました。
 1978年には、原水爆禁止世界大会とは別に生協独自の集会として、今に続く「虹のひろば」が開始されました。現在でも、毎年8月に開かれるピースアクションinヒロシマ・ナガサキには全国から延べ約3,000人の組合員が集まり、生協の平和活動のシンボルとなっています。


ビキニ事件とは
 第五福竜丸は1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。爆心地より160km東方の海上で操業中、地鳴りのような爆発音が船を襲いました。やがて、実験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が第五福竜丸に降りそそぎ、乗組員23人が全員被ばくしました。アメリカは1946年から58年までマーシャル諸島を核実験場とし、67 回もの核実験を行いました。これにより、第五福竜丸をはじめとして、多くの船舶が被害を受けました。同時にマーシャル諸島の複数の島の人びとの間ではガンや甲状腺異常、死産や先天的障害のある子どもが生まれるなど、被害が現れています。また、いくつかの環礁では故郷の島に戻ることができていません。
 これらの出来事をまとめてビキニ事件と呼んでいます。
(出展:東京都立第五福竜丸展示館公式サイトより一部引用)
※第五福竜丸の画像は「第五福竜丸平和協会」提供のため、使用希望の場合は第五福竜丸展示館の許諾が必要です。

第五福竜丸エンジン保存運動
 第五福竜丸の船体は1967年に廃船処分された後、エンジンや金具などが取り外され東京・夢の島に放置されていましたが、保存を呼びかける東京の生協を含む市民運動により1976年「都立第五福竜丸展示館」に保存・展示されました。
 一方、第五福竜丸のエンジンは、貨物船に付け替えられたものの、紀伊半島熊野灘で船は座礁し沈没。海底に沈んだまま放置されるという憂き目に遭います。しかし、エンジンもまた、生協を含む市民運動により救い出されました。
 エンジンは地元住民によって1996年に引き上げられます。その後、地元和歌山の人々は保存・展示運動を開始し、「第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ和歌山県民運動」が発足。この事務局を和歌山県生活協同組合連合会(略称:和歌山県生協連)が務めました。和歌山県生協連からの協力要請に東京都生活協同組合連合会(略称:東京都生協連)、日本生協連が応え、保存・展示実現への協力を全国の生協に呼びかけます。集まった募金は226万円余りに上り、その84%を生協からの募金が占めました(わかやま市民生協機関紙『週刊セプテ第145号』より)。
 こうして運動は実り、1998年にエンジンは東京へ移送することに。展示されていたわかやま市民生協コープ紀三井寺店前を出発したエンジンは、静岡県(焼津市)を含む8府県を経て遂に東京へとたどり着きました。到着したエンジンは東京都生協連らの運動により東京都が引き受け、現在も都立第五福竜丸展示館前の広場に展示されています。この出来事は、生協がビキニ事件を大切な記憶として引継ぎ、核兵器廃絶への強い想いを持ち続けてきたことを示しています。
 このように第五福竜丸の被ばくを契機とした平和への想いや願いは、様々な分野に影響を及ぼしました。映画ゴジラもその一つとされており、日本生協連本部の最寄りである東京・渋谷駅の岡本太郎作「明日の神話」(現在修復中)にも、核兵器による嵐に翻弄される第五福竜丸が描かれています。
 参考資料:『東京の生協運動史 続編』(2001年、東京都生協連)

右:エンジン保存運動について伝えるわかやま市民生協の機関紙『週刊セプテ』
左:『週刊セプテ』に掲載された県民運動発足集会の様子

※vol.0は2月6日に発表しています。
日本生協連 平和の活動 vol.0~「非力であっても無力ではない」―戦後80年と生協がつくる平和~

参考資料:
『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈―』 (2011、丸浜江里子)
『現代日本生協運動史 上巻・下巻』(2002、日生協創立50周年記念歴史編纂委員会)
『東京の生協運動史 続編』(2001年、東京都生協連)
東京都立第五福竜丸展示館