若き日の渋沢栄一がフランスに随行するきっかけをつくった“最後の将軍”徳川慶喜の弟・徳川昭武

知ると2021年の大河ドラマがおもしろくなる「松戸・戸定邸の歴史」

徳川昭武

2021年の大河ドラマの主人公・渋沢栄一。日本近代資本主義の父ともいわれる彼が、多くの業績を残せた背景の一つが、「パリ万博開催に伴うフランス随行体験」だったと渋沢自身が回想しています。渋沢の生涯で重要なフランス体験のキーマンとなったのが、江戸幕府に将軍の代理として派遣された最後の将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武です。松戸は、昭武が隠居の地として選び、後半生を過ごした地であり、昭武が建てた「戸定邸(トジョウテイ)」とその庭園は、今も当時の歴史を残し、国指定重要文化財、国指定名勝として公開されています。そして、昭武の精神は今の松戸の文化にも引き継がれています。
今回は、「2021年の大河ドラマがもっと面白くなるように」のコンセプトで戸定邸で開催されたプレスツアーで取り上げた、「渋沢栄一と徳川昭武の関係」をご紹介します。

※本号は、2020年11月11日に開催したプレスツアーでのトーク内容を再編集したものです。

お話を伺った方

齊藤洋一さん (松戸市戸定歴史館 名誉館長)

パリ万博が変えた、渋沢栄一と徳川昭武の人生

渋沢栄一と縁の深い徳川昭武

――  来年2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一と、戸定邸にて晩年を過ごした徳川昭武は、とても縁が深いそうですね。

齊藤:  はい。渋沢の人生のハイライトは、1867年のパリ万博に昭武と共に赴いたことです。後世の我々からすると、万博に行ったことを既成事実のように振り返るわけです。ただ当人にとってみれば思いもよらない経験でした。昭武が仮に将軍名代(=代理)としてパリに行かなかったならば、渋沢は「万博に行け」と命じられることはなかったでしょう。こういうことが様々な運命の“あや”となって、渋沢は明治になってからめざましい活躍を遂げます。

―― そうすると、渋沢の活躍の礎のキーマンになったのが昭武だということになると思うのですが、ご存じのない方が多いと思います。

齊藤:  おそらく、「徳川慶喜は知っているけど、昭武って誰?」という方が大部分ではないかと思います。歴史には、困難に立ち向かった英雄たちがいます。「いかに彼らが偉大な結果を出したのか」は歴史の光の部分と言えますが、それが光と認識できるのは、その一方に影があるからです。仮に「光と影」を「勝者と敗者」と置き換えれば、勝者の歴史こそ正史と考えられがちですが、そうではありません。昭武は、典型的な“影”の人物だと思います。

――  パリ万博という華々しい世界に派遣された人物が“影”ですか?

齊藤:  万博直後に幕府が瓦解したため、歴史の構造上、忘れ去られるべくしてそのような立場になった人物といえるでしょう。彼がその後いったいどのような価値観をもって歩み、生きていったのか。そして現代の我々に何を遺してくれたのか。その一端をご紹介させていただきます。

渋沢と昭武の兄・慶喜との出会い

齊藤:  渋沢と徳川家との関係は、昭武の父である水戸藩第9代藩主・徳川斉昭にまで遡ります。斉昭は、幕末の思想界に非常に大きな影響を及ぼした人物です。実は渋沢も、若い頃から斉昭の行動や思想に非常に強い影響を受けてきたのです。渋沢の生まれた埼玉県深谷市と水戸は約120kmも離れていますが、時代を動かすような斉昭の思想的な影響力は、全国に広がるものでした。そのような中で、農民だった渋沢は志士を志し、やがて攘夷派として横浜を焼き討ちするなど、命がけの行動をとるようになります。

――  そのような志士である渋沢と慶喜はどのように出会ったのでしょうか?

齊藤:  渋沢が討幕活動をしていたことがきっかけです。尊攘派の猛烈な志士であると幕府に知られることになり追われ、関東にいられなくなりました。渋沢は京都へ逃げますが、志士の人脈が張り巡らされた京都で、一橋家の用人であった平岡円四郎という人物に、慶喜に仕官するよう勧められました。かつて農民で、しかも幕府を倒そうとして追われる身であった渋沢を、平岡は“人材として有能か”という観点で見ていました。一橋家でも優秀な家臣が欲しかったからです。

――  とはいえ、渋沢も急に手のひら返しはできませんよね?

齊藤:  そこで、方便ではあっても、「慶喜に直接会わせろ。会って俺の思いの丈をぶつけ、それでも良いのだったら仕える」と言いました。慶喜に面会した渋沢は、「いざとなったら一橋の兵力で幕府を倒せ。それが本当の“徳川家の中興”なのだ」と訴えました。「幕府を潰しても徳川家は再興できる。それが一橋の役割でしょう」と理屈を述べたのです。

――  叱咤された慶喜は、どのように返答したのですか?

齊藤:  無言であったといいますが、渋沢は慶喜に仕えることになりました。ここで彼の人生はガラッと変わりました。元は農民だったため、身分は低かったものの武士となりました。慶喜のもとで実績を重ねるうちに、徐々に才覚を認められるようになりました。

パリ万博がつなげた昭武と渋沢の縁

――  ドラマチックな出会いでしたね。それでは、昭武と渋沢はどのようにして出会ったのでしょうか?

齊藤:  昭武は、ペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航した1853年(嘉永6年)に生まれました。先述した通り、昭武は第9代水戸藩主・徳川斉昭の18男です。慶喜は7男で、昭武は慶喜より16歳年下。慶喜と昭武が初めて出会ったのは、おそらく京都だったと思います。慶喜は昭武が非常に優れた資質を持っていると感じたようで、「自分の後継者に誰かが必要ならば、昭武しかいない」と思ったそうです。

――  パリ万博へ派遣される人物として、昭武が選ばれたのも必然だったのですね。

齊藤:  パリ万博への参加は、「幕府再生のためにはフランスと強く連携するしかない」という背景がありました。そのためのしかるべき人物として白羽の矢が立ったのが昭武でした。実はその時、昭武は会津藩へ養子に入ることが決まっていたのですが、慶喜はそれを破談にし、昭武をフランスに派遣しました。

――  そこでお付きとして選ばれたのが渋沢ですね。

齊藤:  日本国内の状況を鑑みても、フランスへの訪問は大変な困難が予想されました。この状況をマネジメントできるのは渋沢以外にいないと見込まれ、お付きとして指名されたのです。
しかし、一行のパリ滞在中に江戸幕府が潰れてしまいました。彼らを送り出した当の本人である幕府の権力が失われたのですから、大変な状況であることは間違いありません。渋沢は、卓越したマネジメント能力で切り抜け、昭武を無事日本へ帰国させることに成功しました。渋沢の活躍がなければ、日本への帰国は叶わなかったかもしれません。

昭武がヨーロッパで着用した、「緋羅紗地三葉葵紋陣羽織」

帰国後の昭武の足跡

――  激動の日本に帰国した一行のなかでも、幕府の人間だった昭武には苛烈な状況が待ち受けていたのではないでしょうか。

齊藤:  昭武は、帰国後の明治元年に水戸藩主となりました。藩は明治4年の廃藩置県まで存続しますが、これは新政府の昭武に対する敗戦処理で、「水戸藩主のポストを用意するから素直に日本に帰ってきてくれ」という意図でもありました。昭武の万博派遣では、フランス留学も重要な役割でした。万博に参加していたナポレオン3世やロシア皇帝などとの宮廷外交、条約締結国歴訪、更には万博後に長期留学し、日本に役立つ人物になって帰国することでした。しかし、大政奉還によって一時帰国を余儀なくされたため、のちの明治9年に再びフランスに5年間留学しました。

――  再度渡仏したのですね。

齊藤:  二度目の留学から帰国後、松戸で戸定邸の建設を始めました。建設開始から約1年後の29歳の時、水戸徳川家の当主だった昭武は隠居します。そして明治17年4月7日、30歳の時、戸定邸の座敷開きをし、昭武は戸定邸を実質的な住まいとしました。ちなみに、彼の本籍地は、水戸徳川家の本邸があった現在の隅田公園です。本邸は戸定邸よりもずっと規模が大きいですが、戸定邸は昭武専用の住まいとして作り上げられました。

明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物「戸定邸」(国指定重要文化財)と「庭園」(国指定名勝)。増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及びます。旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が、高く評価されています。
なお、徳川昭武の旧所有地のうち、約三分の一が戸定が丘歴史公園として整備公開されています。公園内には昭武と慶喜の資料を展示する「戸定歴史館」、「戸定邸」、昭和53年に松戸市が市制施行35周年を記念して建設したお茶室の「松雲亭」があります。

昭武、慶喜の晩年と渋沢のその後

――  29歳での隠居は相当早い印象です。その後、どのような人生を送ったのですか?

齊藤:  戸定邸の完成後、昭武は“麝香間祗候(ジャコウノマシコウ)”という役職に就きます。これはかつての大きな藩の藩主、または五摂家のような極めて位の高い人たちに対して、一定の処遇をしようと与えられたものです。定期的に宮中に参内し、天皇に拝謁できる特権が与えられました。“上がり”のイメージが強い役職です。昭武は若くして、この役職に就きました。名誉なことではありますが、明治になって、彼が公の場で活躍することはありませんでした。
そして昭武は、明治43年、満年齢56歳で亡くなりました。兄の慶喜よりも早く亡くなってしまったのです(慶喜が亡くなったのは大正2年、満年齢76歳)。

齊藤:  最後の将軍だった慶喜は、苛烈な戦いの末、慶応4年1月7日に新政府から追討令が出されました。「追討令」は軍を派遣し、慶喜の命を奪うことを意味します。そのような処分を受けたことで、慶喜はその後30年間、静岡で静かに暮らすこととなりました。慶喜が名誉回復を遂げたのは明治31年3月2日。そこで、維新後、初めて明治天皇に拝謁しました。一度は死刑を宣告された立場にもかかわらず、明治35年には最高位の公爵をもらいます。国家に偉大なる勲功のあった者に公爵は与えられるわけですから、人生が逆転したといってもよいでしょう。その時のお祝いを、昭武は戸定邸で2回開いています。

齊藤:  渋沢は渡欧した際、現地で様々な資本主義経済の仕組みを学びました。帰国後は大蔵省や民部省に入省し、銀行制度をつくるなど、大きな活躍を果たしました。パリ万博への派遣は、昭武だけでなく、渋沢の人生も大きく変えたのです。
明治維新では勝者たちが新しい国家を作り上げました。一方でそのような人たちだけでなく、徳川家のような敗者、“影”の人たちの生活もそこにありました。今回の会場となった戸定邸のような昔の住まいが、その歴史、暮らしぶりのひとつを映し出していると思います。